卒業生
トニー・フライ
現在、シドニーを拠点に日本の大手CM制作会社などから依頼を受け、企業コマーシャルやプロモーションビデオの制作のお手伝いを行う、映像プロダクションの会社を経営しています。人生に悩んでいた20歳の頃、出会ったのがサーフィンでした。
スピネカーフィルムズ 代表/プロデューサー
(2006年卒業)
INDEX
01セーリングで大学進学。しかし待ち受けていたのは、先の見えない混沌の日々。
現在、シドニーを拠点に日本の大手CM制作会社などから依頼を受け、企業コマーシャルやプロモーションビデオの制作のお手伝いを行う、映像プロダクションの会社を経営しています。日本企業のCMや世界で展開するグローバルキャンペーン、またアカデミー賞受賞撮影監督を招いたイベントなど、これまでにさまざまなやりがいと刺激に満ちた仕事に携わらせていただきました。
僕は、神奈川県茅ヶ崎市の生まれで、ニュージーランド人の父と日本人の母を両親に持ちます。小学校、中学校、高校と市内の公立校に通っていたこともあり、自分では日本人のマインドが強いと感じています。小学2年生の頃に父親の転勤で1年間アメリカに住む機会があり、そこで英語力の土台を築くことができました。帰国後、茅ヶ崎は地域柄マリンスポーツのメッカなので江ノ島ジュニアヨットクラブに入部し、小3から高3までセーリング競技に夢中になりました。セーリング競技の成績と英語という2つの特技を生かし、AO入試(2021年度以降の入試ではAO入試での募集は行っていません)で神奈川大学に入学しました。
大学に入学後、セーリングでオリンピックを目指していた時期もありました。しかし、それまで夢中で取り組んでいたのに、なぜかパタッとやる気がなくなり、10年近く続けてきたセーリングを一切、辞めました。燃え尽きてしまったようなその頃は、何をしたいのか分からず混沌とした毎日を過ごしていました。
02サーフィンとの出会い。海がつなぐ場所と縁。

人生に悩んでいた20歳の頃、ある日、友人と茅ヶ崎の海を何となく眺めていたら、赤い板に乗ったサーファーがふいに現れ、カッコいい技を決めました。友人と「これだ!」と顔を見合わせ、その場でサーフィンをやろうと決心しました。そこからは、サーフィンに明け暮れる毎日。湘南ひらつかキャンパスは車通学がOKだったので、サーフィンをしてから大学に向かうこともありました。学業の合間…、いえ、サーフィンの合間に学業をしていました。サーフィンを通じて知り合った当時の仲間とは、今でも一緒に波乗りに行っています。
大学生活も4年目になり、就活の時期を迎えましたが、頭にあったのは「とにかくサーフィンがしたい」。なかなか就活は上手くいかず、それならばと父の祖国のニュージーランドに1年くらい住んでみようと渡航を決めました。ニュージーランドで暮らすことで、英語も上達するだろうし、サーフィンもできる。ニュージーランドでは、親戚の手伝いでバヌアツ共和国へ出掛けたり、友達に会いにオーストラリアに行ったり、あるいは神奈川大学の友人がニュージーランドに語学留学にやってきたりとサーフィンをしながら充実した日々を過ごしていました。

そうして1年ほど過ごしていましたが、バイトで貯めたお金も底を尽きかけた頃、シドニーにある映像プロダクション会社がスタッフを募集していて、面接を受けた上で無事に採用が決まりました。その会社は日本のCM制作会社様との取引が多く、沢山の優秀なスタッフの中でCM制作のノウハウや流れを学べたこと、そして日本のCM制作会社様や現地のスタッフとのつながりが持てたことが大きな財産になりました。ちなみに、その会社の社長もサーフィンが好きで気に入っていただけたのだと思います。これも海がつないでくれた縁なのかも知れません。
03多様化、複雑化する映像業界の中で、風をよみ大海原を行く。

数年後、その会社が現地の企業に譲渡されたのですが、譲渡先の企業が倒産。そこで、26歳の時に自身の会社「スピネカーフィルムズ」を立ち上げました。会社では僕自身は撮影や編集をしているわけではありません。お客様の意図に沿ったキャストやロケ地を提案させていただき、撮影が円滑に進むように段取りをするのが主な仕事です。日本人と外国人の混成チームになることが多く、現地の現場責任者として責任は重大ですが、その分大きな充実感もあります。
映像業界の今後については、映像の必要性があらゆるシーンで高まりながらも、携帯電話で撮影した手軽な動画から、世界規模の動画配信サービスが手掛ける壮大なプロジェクトまで、驚くほど多様化が進んでいます。日本の業界がどう進んでいくのか、映像業界に身を置くものとして注視していきたいと思っています。

学生時代を振り返ると、苦手ながらも取り組んでいた簿記や会計の知識は今の実務に役立っています。僕自身は決して優等生ではありませんでしたが、神奈川大学は、一人ひとりの学生に親身になってくれるアットホームな環境でした。好きなことには真面目だった自分を受け入れてくれる学校環境があったからこそ、学業とサーフィンを両立できたのだと思っています。
後輩の皆さんには、行きたい国があるなら、そしてやりたいことがあるなら、是非チャレンジしてください、と声を大にして伝えたいです。僕にとっては海が世界を広げる接点でした。社名の「スピネカー」には、「追い風の時に張る帆」という意味があります。嵐がきたら隠れて、いい波がきたら乗って、これからも進んでいきたいと思います。
※内容はすべて取材当時のものです。